武士道とか

 雨が降っている中、傘を差しながら歩いていると傘を持っておらずに濡れている友人に出会った。この時どうするか?
 武士道だと、「自分の傘を畳んで一緒に濡れる」って事らしいです。
 これがアメリカだとどうなるんだろう?
 そんな話になったのですが、アメリカなら「友人を誘って傘を貸してもらえる場所に行って借りる」のではないか?となりました。
 ではイギリスならどうするのか?となった場合、良く分からないけど「友人に傘を貸して、貸した自分が濡れながら俺カッコイイと思う」のではないかとかなりました。
 では、この発想になるのはどういった理由かな?ってのをちょっと考えました。
 武士道だと、濡れている友人が可哀想で自分もその身に落として同じ思いをしています。自分が傘を持っているのだから貸してあげるとか手がある筈なのに、敢えて自分も濡れて、悪く言うと共倒れの発想です。でもこうする必要があるとすれば、傘を忘れた事を恥じ入り、ある種戒めとして濡れている友人に傘を差し出すのはそのプライドを傷付ける事になる為、濡れながら自身を戒めている友人を邪魔しないで、自分も濡れて相手の辛さを共感してあげるしかなかったのだと思います。献身、という奴でしょう。謙虚さもあると思います。
 但し、見方を少し変えれば、友人が傘を忘れたせいで自分も濡れなければいけなくなった、という事になるので、相手を思いやる気持ちを欠いた場合には「そもそも傘など忘れるな、迷惑だ」という考えになります。
 ではアメリカはどうなのか?
 アメリカの発想は「傘が持てない人がいる」という事情を前提にしていると思います。例えば、アメリカに住んでいるけど英語が分からない、そういったのは「当たり前である」という考えで、手を差し伸べるのです。事実、国語を喋れなかったり読めなかったりする人へのサポートをアメリカと日本で比べた場合の差は圧倒的ではないでしょうか?
 この事実は、友愛や謙虚さを感じられます。但し、これも相手を思いやる気持ちが欠ければ「あいつは傘も持てないから仕方が無い」となるのでしょう。
 どちらの思想でも思い遣りと謙虚さを持っていれば最終的には近いものだと思いますが、現代社会のように多様性の中で生き抜いていくには、多様性を基にしたアメリカの思想の方が良さそうです。武士道の発想だと、同じでない事実に対してはあまり考慮されておらず、個々が耐え忍ぶことによって全体として大きな協調性が生まれ、それが力になるという発想なので今の流れと大きく異なる波が来た時には根底がひっくり返る可能性が高いです。もう少し掘り下げていくと、おかしいことが否定されないでいると大問題に発展するのが武士道的な発想です。その為、おかしいことがあったら命を懸けて止める、という思想が組み込まれているようです。そうでないと全体が共倒れしてしまうからです。
 さて、どうしても武士道だと現代社会においては弱そうです。
 一昔前の工業時代には日本はかなり頑張ってましたが、これは「個々が耐え忍ぶことによって〜」の内容が「工場での作業」において非常に強く有利に働いたのかもしれません。事実、アメリカ(は知らないけど、話だけ…)や中国の工場現場は日本と比べると非常にやり辛いです。自身が考えて全体の為に行うという思想が殆どありません。
 では、これからの社会で生かせる強みは無いのか?現代の教育と思想は相反してないのか?
 日本はローカルルールが無数にあり、それの一つが突如列島に波及する。良くも悪くもその辺りの性質を上手く使うのが生き残る道なのかなとか思ったりするけど、良く分かりませんでした。
 因みに・・・
 中国の思想はどうなの?となった時、良く分からんけど中国って「抜きん出たモノに投資する」投資家の性質が強く、それ故に町造りが得意なのかなとか思ってみたり。つまり、投資して大きくなったモノから投資した人に還元されていく仕組み、なのかなと。これは社会主義的な日本の発想とは逆で、とても資本主義的な発想であり、だからこそ中国では実質資本主義なのかな〜。不思議だけど、投資こそ社会主義って考えなのかもね。逆転の発想だけど、意外とそうなのかも?